人気ブログランキング |
権力構造の相対化と表現価値の成立
陣野俊史の「テロルの伝説」をやっと読み終わった。この本、457ページの大書。内容は、桐山襲(きりやまかさね)という全共闘世代の作家の評伝である。桐山襲は、全共闘世代の過激さの象徴でもある、天皇襲撃というテロルをモチーフに、大和(ヤマトンチュ)に搾取され続けてるとされるオキナワを愛し、日本民俗学を大成させた柳田國男はしょせん日本国家官吏として、彼を大きく超えて、和歌山在野でありながら、世界的博物学者、生物学者、民俗学者として日本を研究し続けた南方熊楠のニポン土着性への偏愛にも深く共感を寄せた。しかし、この陣野の評伝にはちょっと疑問。まず、第一、桐山が執着し続けた、これは、まあ、新左翼が、連合赤軍が、東アジア反日武装戦線が、執着し続けた天皇襲撃というテロルの意味が、どうも、わたしゃピンとこないんだよね。天皇ってのがそもそもそんなに重要?さらに、そのテロルが一般市民をまきこむことがある場合にはちょっと待ってよと思う。で第二は、その狭隘な新左翼的価値観が、文学の、文学そのものが持つ豊穣さ、多様性を損ない、文学が薄っぺらなものになりはしないか、つう二つの疑問だ。って言いながら、そもそも「文学」ってもの自体、信じるに足るものではないし、文学っって言うことがとても恥ずかしいよね。いい大人が。まあそれはそれとして。で、もちろん、二つの疑問は陣野の書いたこの本についてであって、桐山襲はちゃんと全然読んでないので、桐山に対しての直接的な疑問ではない。あっ、あともーいっこあった。この腐った本の装丁デザイン、このデザイン屋こそテロルしたいと思いました。しないけど。で、第一の疑問をもちょっと言うと、天皇という存在は、当然のことながら、歴史的地域的に意味も価値も大きく異なっている(天皇の相対化)。もともと、2000年前は、奈良かどっかの関西にいた朝鮮半島生まれの土豪だからね。そこらの土建屋のおやじの中のおやじだよ。土建が力だったんだから。平安中期以降、そのテンノーチャンを担いでた公家たちではない、もともとは百姓だった者が武力をもって力をつけていった武士たちが、実権を握り、鎌倉が成立し、室町経由で、戦国があって、江戸があって、一方どんどんお飾りになっていった天皇を、思想面では、江戸の爛熟が、当時の文化的思想的大国中国への対抗心(純粋な思想人としてのです)から、儒教朱子学、中国の倫理哲学歴史思想を逆手にとって、つまりは、その手法はちゃっかりお借りして、いつものニポン人の良くやる手だが、日本だけを称揚する、尊王思想(つまり天皇が偉い)を生み出す。源流は、本居宣長、平田篤胤、山崎闇斎の国学から復古神道を経て、水戸等にて尊王が生まれ、そして攘夷と。テンケーテキな遅れてきたネーションナショナリズムの勃興であり、昭和になり若いケツ青い日本のナショナリズムという愚連隊は、アジアという長屋で狼藉の限りを尽くした。話、ずれますが、加藤陽子の「それでも日本は戦争を選んだ」等を読むと、この愚連隊、結構ずる賢く、外交交渉を世界各国に粘着的に行い、たとえば、最終的には、リットン調査団に満州国は日本のものと認めさせるに至った、んだが。やっぱりきれやすい青い愚連隊は、それを良しとせず米国と戦争することになる。そゆ、明治以降のできたての若いケツ青い日本の民度の低いナショナリズムを叩き潰したい、矯正したいという若いケツ青い日本の民度の低い反帝国主義者が新左翼ではなかったか。桐山襲は多分(というのは私は桐山を読んでないから)、桐山(桐山の最初の小説「パルチザン伝説」は右翼の抗議で単行本化されず)より20数年前に天皇を冒涜したとして右翼から憤激を買い、出版元の中央公論社社長宅が襲撃されるもとになった作品を書いた深沢七郎ではない。深沢七郎という、日本現代作家でほとんど唯一、生と死の真実をリアルにグロテスクに爽やかに記したチョーいーかげんなねえちゃん大好きギター弾きアナキスト作家は、その作品風流夢譚で、皇太子と皇太子妃(モデルは現在の天皇皇后)の服の生地は、英国仕立だと日本の保守伝統からかい離していることを嘲笑い、その後、その2つの首をちょんぎりさせ、しかもその首は、からりころころと乾いた音を立て、中身のないお人形だったことを記すのだが、その一方でワーワーと皇居の前で群れ集まって騒いでいるのは、なんかの欲に狂った、「左慾」の若者だと返す刀でこっちもぶった切るのだ。ブンガクがブンガクとして力を持つのは、表現が表現として成立するためには、それ自身自体の価値、存在を疑い、信じないことが重要ではないだろうか。
b0067590_16202191.jpg

by somuchfor | 2016-10-05 10:35 | Comments(0)
<< 形 ビール >>