le vent se lève
風立ちぬは見ていない。なーんとなく、最近の宮崎駿に関心がない。関心がないおれが書く以下のこのエントリーはだから、傍観者でちょっと無責任ではある。正直、どーでもえーやんとも思う。申し訳ありません。さて、たまたま小飼弾が、宮崎駿の風立ちぬにいらいらしていたのを読んで、もひとつぴんと来なかった。で、いろいろ評価をネットで見て、結局、宮崎のゼロ戦への無批判な賛美にいらいらしてたんだなとようやく納得。藤原帰一は、毎日新聞で以下のように風立ちぬを、現実から歴史から目を背ける子供っぽさは美しくないと簡潔に批判している。わかりやすい批判だ。

藤原帰一(毎日新聞「日曜くらぶ」2013年7月21日)
「心の中に子どもがいるから描くことができる夢があります。『魔女の宅急便』や『千と千尋の神隠し』は大人が子どもに合わせて歌うのではなく、大人の中の子どもをそのままかたちにしたからこそ、胸を打つのでしょう。見ている大人の方も心の中には子どもが残っていますから、映画館に連れていった子どもばかりでなく、自分まで感動することになるわけです。
 とはいえ、子どものままでは未熟な大人に過ぎない。子どものまま大人になった人は、自分で向かい合い、学び、行動を選ばなければいけない現実から目を背けているからこそ、子どものままでいることができる。その子どもらしさは美しくありません。
 夢の飛行機をつくる人生もいいのですが、戦闘機の美しさは戦場の現実と裏表の関係にある。宮崎駿が戦争を賛美しているとは思いませんが、戦争の現実を切り離して飛行機の美しさだけに惑溺する姿には、還暦を迎えてもプラ模型を手放せない男のように子どもっぽい印象が残ります。」

最初に言ったように、おれは風立ちぬを見ていない。従って、藤原帰一の意見が正当かどうかはわからない。「風立ちぬ」はヴァレリーの詩「海辺の墓地」からの一節を堀辰雄が小説「風立ちぬ」で訳し引用したもの。「海辺の墓地」は、生への意思がテーマのひとつだ。宮崎は、この生きることの意思の大切さを、もしかして示したかったのかもしれない。なんて、何度も言うが、見てもいないおれです。

Le vent se lève, il faut tenter de vivre(ポール・ヴァレリー)
風立ちぬ、いざ生きめやも(堀辰雄)
風が吹く、さあ生きねばならない(直訳)

ヴァレリーってランボーとつきあってて、痴話げんかの果てに、ピストルで撃ったやつかと一瞬思ったら、違う違う、それはポール・ヴェルレーヌだよ。
[PR]
by somuchfor | 2013-09-18 16:34 | Comments(0)
<< 八甲田奥入瀬 えんぴつ原画展 >>